Pickup

物品強奪された上、ナイフで刺された(骨を貫通)アフリカジンバブエの話

ニックネーム:そうちゃん

性別:男性

当時の年齢:31歳

時間帯:昼

場所:アフリカ|ジンバブエ|ハラレ

旅行の目的:アフリカ縦断

体験談

 


カシャカシャカシャ…
2012年10月21日
ジンバブエ、首都ハラレ
小さな間違いの積み重ねが致命的な事態を生み出すことを思い知らされる。
早朝、その日に泊まる宿を探して一人で歩いていた。いつの間にかひと気のない所を歩いていた。なぜそんな所を?わからない。確かなことはこの時僕の危険察知力は限りなくゼロに近かったということ。それと僕は訪れる予定の都市で危険な都市として認識してたのは南アフリカのヨハネスブルグとケニアのナイロビだけだった。この認識によって警戒心はほぼゼロ。そしてこの認識の甘さは間違った感覚の一つ。
突然、10人くらいに囲まれた。(もちろん突然というのは僕の主観で奴等からすれば狙い通りなんだろう)
まさにアレヨアレヨという間に荷物をあさられ始める。「これはヤバイな」と思った時が自分でもどうかしてたんじゃないかというくらい遅かった。
状況は最悪。オシアイヘシアイ。いかんせん分が悪い。そうこうしてる内に突然走り出した奴がいた。手にカメラを持っている。(それ!オレのカメラ!)無意識だったと思う。条件反射。追いかけた。自分の大事なものを奪って走り去ってる奴を黙って眺めることができなかった。他の荷物をその場に残し、追いかけた。裸足のソウイチ。結果的にこれはかなり大きく間違った判断の一つ(カメラを取り戻そうとした為にその他全ての荷物を置き去りにし、失うはめになる。カメラも取り戻せず。唯一、腰巻ポーチに入れていたiPod touchとドル紙幣数万円分だけが残る)。一部を求め全てを失う。旅人タル者、モノ二執着スルベカラズ。
全力で追いかけるもそう簡単に追いつくはずもなかった。それでも激しすぎる怒りの感情だけをエネルギーにして犯人の跡を辿る。幅の狭い川沿いの一本道。しばらく進むと、崖のような土手の下の木陰で休んでいる犯人を発見。この発見によって僕の異常な精神状態は極まり、行動は常軌を逸した。土手の上から「アイ!キルユー!」と叫び、犯人に突進。そのまま一緒に川に転落した。川の水をたっぷり飲み、「水に浸かってもうたらカメラあかんやん、なにしてんねん」て思った。
異常な精神状態だったこともあるけど、おそらく僕はその時抱えていた怒りの感情を犯人に伝え(てシバキ)たかっんだと思う。「オレはこんなに怒ってんてんねんぞ!わかるか!?この感情が!貴様がしたことはそういうことなんや!」と。カメラを取り戻すことよりも。
川面から顔をだすと犯人も興奮状態で何やら叫んでいた。右手に光る何かを持っている。ナイフ。まさかとは思ったけど自分の左腕に痛みを感じ、見るとシャツに赤い染みができていた。「うそやん」てまず思った。犯人による攻撃は最初の一撃だけだった(刺した後犯人は僕より先に川から上がり、走って行ってしまった)。僕は崖のような土手を必死で上りながら「まさか死ぬんか、いやいやこんな所でくたばってたまるか、たぶん大丈夫やろ、でも腕はあかんかもな、でも命が助かるなら腕一本はしゃぁないな」とほとんど瞬間的に考え、あとは助けを求めることだけを考えていた。これまでの人生で自分の死を一番近くに感じた瞬間だった。
人が通りそうな道へ出た。僕の全身はずぶ濡れで、白地のシャツは左腕部分が赤く染まっている。その左腕を右手で抱えるようにして(おそらく内股で)歩きながら「ヘル~プ!」と叫ぶ。買い物袋を提げた女性が口に手を当て目を見開いて驚いている。映画的な、あまりに映画的場面だと思う自分がいた。とにかく初めて味わう激痛だった。腕がちぎれるような。少しの動きで激痛が走り、ゴリゴリ音をたてた。朝なのに日差しを強く感じた。
救急車。
なかなか来ないだろうとはある程度予想してたけどその予想を大きくこえるくらい来なかった。笑えるくらいに。救急車が来たとき「やっと文明が来た!」と安心した。でも今回、一番の激痛は救急車の中で発生した。道の舗装が悪いのでとにかく揺れる、弾む。病院に着くまでの10分くらいの間、痛さのあまり叫び続け、気絶したいと心底思った。
病院。
期待値をかなり下げて臨んだけど、そのレベルを大きくこえて酷かった。とても笑えないくらいに。
到着は朝の9時くらいだった。ストレッチャーで移動している距離を考えればなかなか大きそうな病院のようだったのでまずはホッとした。最初、ドクターらしき人物に注射を2本くらい射されたので「よしよし、その調子でよろしく」なんて思ってた。それからなぜか誰もいない小部屋へ移され、まさに地獄の時間帯を経験した。足以外少しでも動くと激痛が走る状態、首さえ動かしたくない状態で、まさかの8時間!放置!
廊下を誰かが通る気配がする度に知っている限り丁寧な英語を使って呼ぶが8割が無視。残りの1割が扉を開けて閉めるだけの行為。残りの1割だけがなんとか話できる。1割にはとにかくドクターを呼んでほしい旨、治療をしてほしい旨を必死に伝える。そしてそれを聞いた彼らはその言葉しか知らないかの如くこう言う。「Now. Coming.(今、来ます)」この言葉、何度聞いたか。
さすがに5時間も経過したあたりから、「どういうことやろ?おかしいやろ」と思い、突拍子もない考えが浮かぶ。
一つ、ジンバブエ国内での旅行者に対する犯罪発生率を抑えるため今回のケースを隠蔽しようとしている。
一つ、医師のレベルが低すぎて治療ができない。或いは医療ミスをおかして外国人に訴えられるのを恐れて治療できない、等。精神的にも相当やられていたと思う。
病院到着後8時間経過の夕方17時頃、やっとレントゲンを撮ることになった。骨が縦にバッサリ折れてた。なるほど、筋肉が切れただけであの痛みは異常だったから納得した。
レントゲンを撮った流れで治療が始まるかと思ったけれどまた別の小部屋へ移された。その小部屋はどうやら更衣室と繋がっているらしく、着替えて帰宅する医師や看護師らしき人物が頻繁に近くを通る。身動きできず呻いている患者を目の前にして帰宅する。「いいよ、君らの勤務時間は終わったんだから、でもお願いが一つだけあるから聞いてほしい、今日中にどうしても治療を受けたいから勤務中の医師を呼んでほしい…」彼らは言う。「OK. Now. They’re coming.(わかった。彼らは今に来ます)」僕は「貴様らがナウナウって言ってからもう8時間も経ってんねんぞ!ええ加減にせいや!ナウの意味わかって言ってんのか!ナウは今やぞ!ぼけっ!」と口汚く罵倒してやりたいのを抑えに抑え「Please. I’m waiting.(お願いします。待ってますから)」なんて相手の心証を考えて笑顔で頼む。こんな茶番、まさに茶番を数回繰り返した。
レントゲン撮影より1時間後、病院到着後9時間経過、18時過ぎ、恰幅のいい私服のおっさん現る。彼はドクターであった。おまけに治療をしてくれると言う。思わず天井に向かって「Thanks God…」と呟いた。精神的限界、発狂寸前状態が言わせた言葉だったと思う。
刺されてから約10時間、病院に到着してから約9時間を経過して初めて、縦4㎝横3㎝程にパックリ開いたまま放置された傷口に消毒をされる。再び激痛走る。「でもいいよ、この消毒されてる感のある痛さは、この痛さを待ってたよ」なんて思えるくらい(治療されることに対して)軽い興奮状態にあったけど傷口をゴシゴシ何度も執拗に拭かれてる内にあまりの痛さに吐きそうになった。自分に痛すぎると吐きそうになる症状がでるのを知った。
消毒、麻酔、縫合。この治療にかかった時間は15分くらいだったと思う。対して待ち時間、9時間。
僕が病院で受けた精神的苦痛は「アフリカだから」という言葉だけでは到底納得できないくらい強烈で最悪で異常だった。ハラワタ煮え繰り返り灰と化すほどに怒り収まらず、翌日からの有り余る時間も手伝って原因を考えてみた。患者の多さに対して医師が極端に不足している?かもしれない。システム上の問題?もあるだろう。やる気の問題?はあるだろう。仮にこれらの問題が全て同時的に存在したとしてももっとそれ以上の何かがおかしい。おそらく根本的でどうしようもない何か。
寝ている時間以外ほぼ全てこの問題の原因追及に費やした。というより動けない状態でできることが妄想に耽るか思索に耽る以外になかった。入院3日目、解答を得る(この件、後述したい)。とにかく、長い一日が終わった。
10月22日(2日目)
在ジンバブエ日本国大使館職員現る。といっても前日の病院到着直後からずっと来てもらえるように看護師等に頼み続けてた。僕にとっては前日の一番つらい時に来てほしかったけど、日曜日だったし仕方なかった。とにかく来てくれてホッとした。
僕は自分ではそんなに(日本の社会的)一般的感覚から離れたものの考え方をしているとは思わないけれど、今回の件で対応してくれた大使館職員のものの考え方というか応対の仕方に「えー!?そうくるか!」と思わず叫びたくなったことが何度かあった。漫画で描けば目玉は飛び出しアゴも伸びているくらいに。
でもこの驚きはある意味楽しんでいた。この感覚の違いはある程度予想はしていたし、どんなお役所感覚を見せてくれるのかネタとして頂きます、という感じで。そしてさすがだった。
簡単にいえば、彼らがすることは全て「業務」であり、決して枠の外にはでない。そして特徴的なことは、相手の言質をこれでもか、てなくらい取ってくるけれども自分の言質は取らせない。日々そういう訓練をしているのかと疑う程にそういう話し方を心得ている。とはいえ、それが業務の一環であれなんであれ色々と対応してくれたことに感謝すること甚だし。感謝しつつもその「業務」はそれこそが大使館の存在意義だ、と旅人の立場から思う。
10月23日(3日目)
前日と同様、寝て過ごす。点滴のみ。大使館職員は保険会社といろいろやり取り。僕は妄想と思索の世界。それでも一日は長い。
10月24日(4日目)
保険会社の判断により転院。曰く「今いる(政府系の)病院は治療に望ましくない病院であるから、私立のより環境のよい病院へ」とのこと。転院後、翌朝に手術をする旨を担当医らしき人物より伝えられる。
10月25日(5日目)
保険会社の判断により手術中止。曰く「前の病院よりは環境はよいが、手術を行う程の信用はないので病院側に手術の中止を求め、病院側も了承した。明日、信用できる病院で手術を受けてもらう為、南アフリカのヨハネスブルグへ飛んでもらう」とのこと。
10月26日(6日目)
ヨハネスブルグ着。
翌朝に手術をする旨を伝えられる。
10月27日(7日目)
人生初の全身麻酔。起きたら全て終わっていた。
10月28日(8日目)
部屋は4人部屋で設備、食事はジンバブエとは雲泥、月スポ、天地の差。一日テレビを見て過ごす。サッカー、プレミアのCHELSEA vs MAN U の試合を見るも香川真司はベンチにもいない模様。残念。
10月29日(9日目)
朝からテレビでサッカーの試合を見続ける。再放送も含め一日5試合は見ている。
10月30日(10日目)
同室の患者がiPhoneを使用している。充電器を借りiPod touchを充電、復活。
10月31日(11日目)
長々と今回の出来事についてしたためる。
11月1日(12日目)
「明日の出国が決まった」との連絡が保険会社より入る。
11月2日(13日目)
ヨハネスブルグから関空へはエミレーツ航空が一番スムーズに行けるらしい。思えば8年前に初めて一人旅をした時に使った飛行機がエミレーツだった。エミレーツに始まりエミレーツで終わる…のか。今僕はダルエスサラームの上空を通過している。夕焼けは美し。そして物哀しい。飛行機から見る景色は結構好きだ。ダルエスサラーム…順調に旅を続けていたならば丁度今日あたりここに着いてたはずだったのに!タラレバを思ってしまう。どうしても。
11月3日(14日目)
関空へ到着。キコク。帰国。
帰国することになった二つの大きな理由…この内どちらか一方の被害だったら、しぶとく頑張れば旅の続行は可能だったかもしれない。荷物だけの被害なら精神的・金銭的痛手を克服し、腕だけの被害なら肉体的回復を待ってバックパックをコロコロに替えてでも…でもダブルパンチは有無を言わさず…ワタナベ君、帰国です。好むと好まざるとに関わらず。
「不幸中の幸い」という慰めのような、前向きのような言葉がある。不幸のどん底のように思えてもそこに不幸以外の何かがある、という感じで。まさに「完璧な絶望など存在しない」という言葉の言い換えのように。
僕を刺したどうしようもない程アホで短絡的な犯人は腕を狙って刺したのかというとおそらく違うだろう。川の中で揉み合いながら狙い刺しできるとは考えにくい。左右にあと10㎝ずれていたら、と思うと「腕でよかった」と確かに思う。でもこの「腕」の比較対象は「命」で、「腕でよかった」という言葉の裏には「命を奪われなくて」という言葉があって、確かに
、本当にそのことは「不幸中の幸い」なんだろう。生きていることに感謝。このことは間違いなく思ってる。
そのこととは別の話で僕にとって、バックパックとその中身すべては一緒に旅を続けているある意味同志のようなそんな愛おしさがあり守ってやるべき存在物だったのに、カメラを贔屓にした為に他のほぼ全てを奪われ、贔屓にしたカメラも奪われた。だからそのことはとてつもなく「不幸」なことで本当にショックなこと。でもわかってる、忘れるべきだ、ということ。でも忘れられるわけない。
こんな悔しい気持ちを持ってるけど、とにかく帰国。
しばらくは療養期間として(また)ゆっくりします。そもそも全治何週間とかまだわかってない状態です。左腕は今のところ不自由だけど、右腕だけでも食事はできるし、お酒は飲めるし、麻雀もできます。でも野球はできないかな。あと仕事もできないな…ないけど。
長すぎる文章は短く終わった旅の代わりのようなもんです。
Anyway,I’m still alive!